てつがく村の入口 | てつ人の雑記帳


村便り

村便り:2008-04-20(日) (隣のおばあさん…)
投稿日:2008-04-25(金)
 隣のおばあさんが昨朝亡くなった。葬儀は今日午後一時から。 おばあさんは亡き父と同級生。3月31日生まれということだから、父より3カ月ほ...

 隣のおばあさんが昨朝亡くなった。葬儀は今日午後一時から。

 おばあさんは亡き父と同級生。3月31日生まれということだから、父より3カ月ほど年上である。88年の生涯を閉じた。

 私はおばあさんを「〇〇のおばさん」(〇〇は屋号)と呼んでいた。おばあさんはわが家の畑の隣の小さな家に一人で住んでいた。結婚はしたが、子どもをもうけたあと、また実家に戻ってきた。弟さんが近くに住んでいて、時々やって来ていた。

おばさんの家
(クリックで画像の拡大)
おばあさんの家。
 左手の、板壁に梯子がかけてある小屋、その向こうの粗壁の小屋、そのふたつの小屋と垂直に交わる方向に立っている、その向こうの小さな家。それがおばあさんが暮らしていた家である。(その背後と、一部が見える右手の、二軒の現代風の家は、他家。)手前、草の生えている畑がわが家の畑、境を接してその向こうの畑がおばあさんが作っていたところである。おばあさんが植えたキャベツやネギが見える。死ぬ数日前に入院するまでは、この一角にいつもおばあさんの姿があった。いまは家の戸が閉じられ、人影がない。見慣れた人が忽然と姿を消してしまうのは、やはりさびしい。
 私は小学校に上がる前から、村のふたつの地区のうち、屋敷がある地区とは別の、灰ヶ峰に近い地区に住むようになったので、おばあさんとの日常的なつきあいは、父の死後に百姓を始めてからである。おばあさんの屋敷には狭い畑がある。その畑とわが家の横の畑とは境を接している。だからおばあさんと私とは、いわば百姓仲間だった。

 小柄で痩せぎすなおばあさんは、腰は曲がり、耳は遠く、目は白内障で見えにくくなっていた。2、3年前に白内障の手術をするまでは、人間は少し離れると輪郭程度しか確認できなかったようである。声を聞いて「あー、あんたね」と前に立った人間が私である確認するほどであった。晩年になると身体のあちこちに痛みを感じていたようである。それでも、死ぬ直前まで畑仕事をしていた(畑は近くの別の場所にもある)。誰にも頼らず一人で生きよう、という意志が最後まで感じられた人だった。

 おばあさんの家へは車が入る道がない。そこでわが家の畑の一部を軽自動車が通れる幅だけ出入路として提供していた。夏になりその道に草が生えると、おばあさんは曲がった腰をさらに曲げるようにして草を取った。「おばさん、[うちの草をとってもろうて]ありがとう」と私が遠い耳にも聞こえるように大声で言うと、おばあさんは「こっちこそ、通らしてもらうんじゃけん。もうちょっとじゃけん、それまでは通らっしちゃてね。お願いします」と逆に拝むようにして礼を返した。「もうちょっじゃけん」という言葉に私はどう言葉を戻していいか戸惑った。

 おばあさんは鍬だけを使って、野菜をうまく作っていた。肥料は下肥も使っていた。米は弟さんが作ったのを食べていたはずだから、食べ物に関してはつましい自給自足だったのではないだろうか。昔の日本がそのまま生き延びてきたような雰囲気さえあった。

 現在わが家で作っているトウガラシは、種をおばあさんからもらったものだ、と母が言っていたのを思い出す。その事実をおばあさんに確認したことはない。確認したところで、ごく普通のトウガラシなので、「ほうじゃったかいね」と思い出せない表情で返事されるだけであったろう。でも、私はトウガラシの種蒔きをするたびに、これは〇〇のおばさんにもらった種、と記憶を新たにする。


 葬儀に列席した。母も列席した。近所の葬儀でも、母が列席すれば、私は行かないことはよくある。家と家とのつきあいだからである。でも、おばあさんには個人として最後の別れをしたかったのである。

 会場に着くと、時間前だったが、すでに椅子がほとんどふさがっていた。受け付けで香典を出そうとすると、辞退された。故人の意思により香典は辞退する、とのことであった。おばあさんらしい。死んだあとまで人を煩わせたくなかったのだろう。

 葬儀の間、私はおばあさんの思い出を反芻していた。最後の花も手向けた。母がおばあさんの弟さんに話しかけているのが耳に入った。「…ほいじゃが、しょうがないよね。こんどはお浄土で会うんじゃね。」しかし、やはり今生の別れではある。

 合掌。
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