てつがく村の入口 | てつ人の雑記帳
<< 2025-04 >>
SunMonTueWedThuFriSat
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   


村便り

このページの記事一覧   << 79/82 >>
 (クリックで個別ページ表示)
村便り:2006-11-03(稲こぎ)
投稿日:2006-11-06(月)

稲こぎには脱穀機が必要である。思いがけず古い脱穀機が手に入り、その機械を使って、脱穀一年生の稲こぎが始まった。

 文化の日の今日からの三連休はうるち米の稲こぎ[稲の脱穀]。

 昨日、米の水分測定器がある農協の支店で水分を計った。水分が14.5%から15%の時に脱穀するのがいい、と言われている。水分が多いと長期保存ができない。今年は9月後半から晴天が続いているので、二週間干した我が家の米はすでに14.3%になっていた。「はぜはつか[稲架、二十日]」とも言われるが、今年は「はぜはんつき」である。

稲こぎ
(クリックで画像の拡大)
 脱穀機を後方から写した。
 左手から稲束をベルトに送り込むと、中央の胴体のなかで脱穀されて、右手に放出される。籾は後方の袋に流し込まれる。
 機械はクローラーで自走する。我が家には据え置き式の古い動力脱穀機があるが、使えるかどうかは確かめずに、放置してある。また、足踏み脱穀機もあり、これは《骨董品》として保存してある。
 田植えが終わってから、いつだったか正確には覚えていないが、近所の、私にとってはお兄さん格の人(「Fさん」と呼ぶことにする)が「要らん脱穀機をもろうて来たけぇ、使えぇや」と話しかけてきた。むろん、私が今年から稲架掛け+脱穀の手順で米の収穫をするのを知っていたのである。Fさんが説明した経緯はつぎのようなものである。

 村の或る農家の前を通りかかると脱穀機(「ハーベスター」とも言う)が投げてある。「こりゃ、要らんのか」と訊くと、「今年からコンバイン(刈取り脱穀機)を使うけぇ要らん」と言う。「要らんのなら、もって行ってもええか」と確かめると「もって行けぇ」と言うので、只でもらってきた。

 「脱穀機は買うなよ。もろうて来たんが動かんにゃ、うちのがある。うちのを使やぁええ。金をかけずに米を作ろうで。」私はFさんの言葉に甘えた。稲こぎ前に整備に出す予定だったが、いつも泥縄の私はそれをしなかった。そこで農協の農機センターの若者に頼んで、ともかく使えるかどうか確かめてもらった。動く、という返答だったので、整備は稲こぎ後にして、一度はお役御免になっていた脱穀機にまずは働いてもらうことにした。

 先週の日曜日の午後、Fさんから操作の説明を受けて、もち米の脱穀をした。こぎ残しの米が多い(*)のを除いては脱穀機はしっかりと働いてくれた。
 (*)使っていくうちに分かったが、機械のせいではなく、私の操作が悪かったため。藁束の入れ方がまずかった(浅かった)のである。

 機械は旧式である。今の脱穀機には藁切り装置をつけることができるが、この機械は脱穀しかしない。だから、以前使っていた人は、別にカッター(藁切り機)をもっていた(カッターも一緒にもらった)。しかし、私のような小農には十分である。脱穀機は新品を買うと100万円、中古だと50万円(程度によるが)する。いずれかを買う覚悟をしていた私には天の恵みである。Fさんに(そして元の所有者に)感謝しながら、私の稲こぎ一年生は始まった。
村便り:2006-10-27(月と生活)
投稿日:2006-11-02(木)

今年の稲刈りは、月明かりについて考えるきっかけになった。最後の稲刈りは、稲架掛けが終わったのが日没後1時間。西の空には旧暦六日の月が掛かっていた。

 先週残ってしまった2畝弱を、午後、刈り上げた。

 金曜日だが、明日は出張するので、またまた休暇をとった。授業の準備に追われる学期中に休暇をとると、それ以外の日にきつい皺寄せがくる。そうは言っても、熟れ具合からして、またすでに刈った稲の脱穀との関係で、さらに一週間日延べしたくはない。そこでやむなく休むことにした。

 刈り残していたのは、いま「村の入口の写真」に写っている田んぼである。この田んぼのウワコウダはダブになっていて、上隣の田んぼとの境あたりになると、水を落としてからも歩くと足が沈むくらいである。バインダーは足が10cm以上も沈むようなところでは使えない。今年は稲刈り時に晴天が続いているので乾いているかと期待したが、裾[田んぼの縁]はやはり鎌で刈らざるをえなかった。

日没時の月
(クリックで画像の拡大)
 日没時にどんな形の月が、空のどのあたりに、出ているかがイメージできるような図を作ってみた。
 東西を結ぶ水平線の上側が空である。水平線を直径とする円周上(円は図には描かれていない)に8つの月を配した。
 新月は、旧暦1日の月、上弦は、7日か8日の月。満月は15日の月、下弦は、22日か23日の月である。図ではそれぞれ日没時の位置に配置されている。たとえば、上弦は日没時に天高いところにある。
 月は円周上を時計回りに回る。上弦は、次第に西にくだりながら夜半には西に没してしまう。下弦は、夜半になってやっと東の空に顔を出し、日の出時には天の一番高いところまでのぼっている。
 月は円周上を動くが、《自転》はしない。だから、空にのぼった下弦は、上弦とは反対側の面が明るい。
 刈った稲を稲架のまわりに集めて稲架掛けを始めたのは、日没間近の午後5時であった。この田んぼの近くには電柱に街灯がある。稲架のナル[横木]はその街灯に向かって掛けてある。光りを利用しようと街灯に向かう姿勢で作業を進めた。すっかりと闇が降りてから西をふり返った。するとまだわずかに明るみの残る空に、月の出ているのが目に入った。新月から六日たった、三日月様の月である。不意をつかれ、引きつけられるように空を見上げた。

 月は近くの街灯には敵わぬほどの明るさである。しかし明日か明後日には半月。日没時には空高くかかる。この大きさになれば、日が落ちてから稲架掛けができるくらいには明るく野を照らすであろう。しかも、夜半までは空にある。

 「星を戴いて出で、星を戴いて帰る」という言葉がある。もしかするとこの言葉の裏には月明かりが絡んでいるのではないか、と想像した。陰暦の7日あたりから10日ほどは日没後も、曇っていなければ、月で明るい。15日から一週間ほどは日の出前でも明るい月が残っている。農繁期にはそれを利用できる。「星を戴いて出で」ても夜明け前から仕事を始めることができ、「星を戴いて帰」っても日没後に一働きはしている。

 都会に住んでいれば、いや、いたるところ《常夜灯》が輝いている現代では田舎でも、月の光を意識することはない。ところが昔は、半世紀ほどもさかのぼれば、月は生活に深く関係していた。名月を愛でるこころも上っ面の風流心ではなく、生活に根づき、いわば血の通った感情であったろう。

 日没後まで作業をした今年の稲刈りで、月との距離がぐっと縮まった気がする。
村便り:2006-10-22(稲刈り、ほぼ終了)
投稿日:2006-10-26(木)

日曜日の稲刈りは、友人と私の外に、従姉、妹、私の家族が加わった。伝統的な稲刈りでは、やはり人数である。昨日はあきらめていた田んぼにまで作業を進めることができた。

 昨日、7畝の田んぼを刈り取り、稲架掛けまでするつもりであったが、全体の5分の1ほど稲架掛けしただけで夕暮れになり、作業を中断した。一昨日は日が暮れても作業をしたので、昨日は早めに切り上げたのである。友人の加勢を得て、金曜日から日曜日までの三日間で一気呵成に稲刈りを終えてしまおうと計画していたが、昨日の作業の遅延で計画通りにはいかない情勢になった。

 朝9時ごろに田んぼに行くと、案の定、稲架のそばに積んでおいた稲束の露はまだ乾いていなかった。できれば乾いてから稲架掛けしたい。立っている稲穂の方はもう露は残っていなかった。そこでまず別の田んぼ(3畝)の稲を刈ることにした。
??
(クリックで画像の拡大)
稲架掛けの終わった田んぼ。
 いちばん手前の稲架(7畝分)とその左の稲架(3畝分)が、今日掛けたものである。一番左が、二週間前に掛けたもち米の稲架。
 写真中央、二つの山塊の谷間から遠く別の山塊が見える。その麓に、筆の生産で有名な熊野がある。私が小さいころは、村では《筆巻き》の内職をしていた女性が多かった。
 今日は妹も手伝いに来てくれた。しばらくすると従姉もやってきた。日曜日は手伝える、と以前から約束してくれていたのである。「稲を掛けようか」と従姉。露はほとんど乾いていた。「よう掛ける?」と私は尋ねた。妹にしろ友人にしろ稲を掛けるのには慣れていない。従姉もできないのではないか、との思いがよぎり、ふと尋ねたのである。「掛けられるわいね!」少々憤慨したような口調の返事が返ってきた。従姉は妹と作業を始めた。妹から二つに割った稲束を受け取り、ナルに掛ける。その従姉を横目で確かめながら「彼女は昔の人間じゃ!」と忘れていた当然事を思い出した。私との年齢差を考えれば、稲架掛けの手伝いは当然やったはずである。頼りになる助っ人が加わり、昼過ぎに、7畝の稲架掛けと同時進行で、3畝の刈り取りと稲架掛けが終わった。

 午後は、従姉が抜けたかわりに、私の家族が加わった。そこで最後に残った5畝の田んぼも一部刈ることにした。天気予報では夜は雨になる。雲に覆われた空からそれは感じられた。刈った稲は稲架にかけておかないと濡れてしまう。そう思うと気持ちが急いた。晴れた午前中のゆったりとした作業のリズムとはうって変わって、動作や言葉が殺気だってきた(私だけだが ^^;)。
 稲架を組み立てて稲を掛けはじめると夕暮れ近くになっていた。それまでに私の家族は帰宅した。稲架掛けは二人一組の作業である。友人と私が組むと妹は余る。そこで妹も帰宅させた。もち米を一人で稲架掛けした二週間前の満月とは違い、今日は新月。さらに空は雲で覆われているから、昔であれば真っ暗闇。ところが街灯が田んぼのそばに立っている。一昨日と同じように、ただし今日は電灯の光りのもとで、友人と二人、夜になっても作業を続けた。

 友人は稲刈りはずぶの素人である。それでも手が足りない、という私の声を聞いて、遠路を厭わず駆けつけてくれた。イベント的な稲刈りならそれなりの演出はあろうが、我が家の場合は生活としての稲刈り。散文的な作業の連続である。でも黙々と手伝ってくれた。失礼な言い方だが、猫の手とは雲泥の差がある有力な《手》であった(なんといっても大の男の《手》です!)。これに味をしめて来年も援農に来てくれたら、と思ってみたが、《これに懲りて》の可能性が高いかも…
 ともかく、merci beaucoup!!
村便り:2006-10-21(稲架の材料)
投稿日:2006-10-24(火)

 バインダーで稲を刈り終えると、稲架を立てる。稲架は支柱(稲架杭、稲架足)と横木(ナル)で組み立てる。 稲架杭は昔使っていたものが...

 バインダーで稲を刈り終えると、稲架を立てる。稲架は支柱(稲架杭、稲架足)と横木(ナル)で組み立てる。

 稲架杭は昔使っていたものが保存してあった。バインダー+稲架+ハーベスター(脱穀機)で稲を収穫することを決心した昨冬、一本一本地面に叩きつけては強度を試し、使えそうな杭を400本選び出した。15年は使わなかったが、木は強い。朽ちていて、叩きつけると折れてしまったものもあったが、思いの外、使えるものがあった。
??
(クリックで画像の拡大)
 山から切り出した直後の孟宗竹。
 稲架を立てるため確認すると、それから1年近くも風雨にさらしたままにしていたので、傷んでいたが、今後の保存に気をつければ当分使えるはずである。
 ナルは、やはり昨冬、近くの山から、孟宗竹を15本ほど切り出しておいた。先端を切り落とした1本の長さは10mはあろうか、切った直後は水分を含んで重い。肩に食い込む重量によろめきながら屋敷まで運んだ。
 稲架杭やナルは金属製(鉄製かアルミ製)のものを買うことができる。しかしできれば木製や竹製のものを使いたい。金属製の稲架は風景になじまない。風景になじまないものは農耕にもなじまない(農耕の理念を自給的生活だとすれば)。はっきりした予定があったわけではないが、場所ふさぎになっても稲架杭はとっておいた。廃棄するのは簡単だが、同じ数だけの木製杭を手に入れるのは並大抵のことではない。支柱が木製であれば、ナルも木製か竹製を使いたい。そこでわざわざ孟宗竹を切り出した。

 稲架杭は軽トラックに積んで田んぼに運んだ。ナルは一本一本、担いで5、6分の道のりを運んだ。1本は8mほどに切りつづめた。切った直後に比べれば軽くなっているが、長さがあるのでバランスよく担がなくてはいけない。援農にきてくれた友人にも担いでもらった。あとから感想を訊くと、重かった、との答えが返ってきた。そこで担ぎ方の要領を説明した。
 肩を支点に前後の重量バランスを考えなくてはならないことは当然のことだが、竿を載せる肩の部分を選ぶ必要もある。肩の付け根、首のすぐ横に載せる。その部分は肉が盛り上がり、重みが直接、骨にかかることはない。肩の外側になるほど骨に重みが食い込み痛い。また、身体の縦の中心線付近であるから、揺れも少なくなる。ちなみに肥担桶も同じ要領で担ぐ。
 彼の肩の付け根を掴みながら、説明した。すると「早く教えてくれればいいのに。コンちゃんが軽々と運ぶのにどうしてこんなに重いんだろう、と思った。」と彼は口をとがらせた。でも、《援農》に来ていただいた方に、まるで弟子であるかのように、ひとつひとつ指図するのは憚られるのです。
村便り:2006-10-20(うるち米の稲刈り開始)
投稿日:2006-10-23(月)

東京から《援農》に駆けつけてくれた友人と一緒にうるち米の稲刈りを始めた。友人は、稲刈りははじめての経験である。

 予定通り、休暇をとって稲刈りの開始。
 昨夜、東京から友人が《援農》に駆けつけてくれた。今日(金曜日)から日曜日までの三日間、稲刈りを手伝ってくれる。久しぶりの再会のゆえ昨夜は二人とも飲みすぎて、朝は出遅れた。

??
(クリックで画像の拡大)
 刈り取ったソバを島立てにした。島立ては実際には見たことがないので、ソバの産地に住んでいる人(非農家)の、画像付きの説明をもとに、自己流にやってみた。ポールが立ててあるは、島立てを固定するため。
 後ろの、バインダーが入っている田んぼが今日稲刈りしたところ。
 稲刈りの前に、ソバの刈り取り。収穫適期を過ぎた状態なので、これ以上、刈り取りは延ばせなかった。友人にも鎌を渡し要領を説明して、二人で作業を始めた。しばらくすると友人が、腰が痛くなった、とはやばやと悲鳴をあげた。おまけに、鎌はほとんど使ったことがない、と言う。小面積ながらも市民農園を借りていた彼なので、意外な気がすると同時に、これからの《援農》に心もとない不安を感じる。

 稲刈りを始めたのは正午ごろ。今日中に田んぼ一枚は刈り取って、稲架にしなければ明日以降の予定に差し支える。そう思うと昼食抜きで作業を進めたかったが、なにしろ都会からの《援農》者が一緒、あまりハードなスケジュールでは、農耕に抱いているかもしれない《期待》と《意欲》を一瞬にして打ち砕いてしまうかもしれないと思い、三畝(300m2)の、変形田を刈り終えてから、近くの食堂に遅い昼食に出かけた。
 食堂は村の人が経営している。最近開店したばかりのまだピカピカの店内なので、野良着に長靴という格好では気後れしたが、午後2時半という時間では客は我々だけだったので、ひと安心。うちも今週始めから稲刈りをしている、という女主人と言葉を交わしながら食事を終えた。
 稲を稲架にかけ終えたのは、夜の闇がすっかりおりた午後7時。

 夕食時、酒を飲み交わしながらふと「稲刈りに情緒はないね」と彼が漏らした。やはりハード・スケジュールで彼を《幻滅》させたようである。
 農作業に《情緒》はない。のんびりとした稲刈りといったものは、通りすがりの非農耕者の感情移入によって成り立つ風景にすぎない。あるいは、流行りの「スローライフ」といった言葉でマスコミが虚飾する見かけにすぎない。いずれにせよ、《情緒》は農耕を対象化する主観が自分の側にかもしだすものであり、農耕自体にあるのは、生きるという感覚である。意識はしっかりと、たとえば刈り取ろうとする稲や前進するコンバインに向けられている。《情緒》という曖昧なものが入る余地はない。あるのはただどっしりとした身体感覚だけである。
 酒でなめらかに軽くなった口で、そんなことをしゃべった。
Powered by
Serene Bach 2.19R