畑の草刈り
今日は一日、畑の草刈りで過ごそうと思う。
(クリックで画像の拡大) 草刈り。
画像左下から上に向かって、電気柵のポールが立ち並んでいる。草刈りのときは作業の邪魔になるポールはふつう抜くが、今日は土が乾いて締まっているため、抜けなかった。ポールから右がわが家の畑。
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(クリックで画像の拡大) アスパラガス。
去年一年間育苗して今春定植した。今年は収穫はせずに株の大きくしている。草に埋もれていたが、今日草取りをしてやった。 |
畑の大部分は電気柵(ふだんは電気を通していない)で囲ってあるが、その電気柵は草に埋もれている。電気柵が対象にしているイノシシは今年はまだ畑にはやってきていない。しかし、現在は廃田状態になっている、近くの谷地田沿いの道を先日歩いたとき、繁る草のなかに踏み跡らしいものが見えた。畑にいつイノシシが襲来してきても不思議ではない、と思われる。だから、電気柵周辺は草を刈って、柵の存在を、やってくるかもしれないイノシシに対して、あきらかにしておく必要がある。《賢い》イノシシなら、いちど電気柵を経験すれば、それ以外の電気柵に対しても警戒して、近寄らないからである。
また、9月からは畑の農繁期が始まる。畝の草を刈り、耕耘しておかなければならない。
夏の間に繁茂した草をぼちぼち刈り始めなければならない時期になったのである。
7月になってから雨の降らない空のもとではなにもかもが乾いている。草刈り機で草を払うと土埃が舞うほどである。身体もすぐに乾く。身体から抜けた水分を補給するのに、一日野良で作業をすると、水3リットルは必要になる。夏の農作業は身体にこたえるが、それに応じて作業効率は逆に下がる。「(身体への負担)×(作業効率)=一定」といった式が成り立つような気がする。
ため池の水を抜く相談
正午のサイレンがなってしばらくして、伏原井手の井手頭が、ひょっこり畑にやってきた。私の方に近づきながら、自分の腕時計を指している。もう昼食時間だ、という意味であろう。むろん、用件はそんなことではない。「夕方6時に亀池に集まってくれんかの。池の水の話じゃ。」と井手頭は言った。池の水を最後に抜いた日から今日で四日である。週間天気予報によれば、これからも雨が降りそうもない。そこで、池の水をどのように使うかを相談する、ということであった。
(クリックで画像の拡大) 亀池。南から北に向かって撮影。
夕日に照らされた堤防の、左から三分の一あたりに水門がある。水門から出た水は、北西の方向に流れ下る。
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(クリックで画像の拡大) 池の水位。
三回、水を抜いた結果、現在の水位になった。抜く前は、ブロックの最上段の真ん中あたりまで水があった。 |
夕方、指定された時刻に亀池に向かった。畑から亀池までは5分ほどである。7人が集まった。井手頭の説明によると…
最初に池の水を抜いてからは、井手の水はすべて池に溜めて、四日おきに水を抜く、という計画をたてたときには、二、三回繰り返すうちに雨が降るだろう、という希望的観測があった。三回目に水を抜いてから、今日は四日目である。しかし、すでに三回水を抜き、かつ流れ込む水が少ないので、ご覧のとおり、池の水位は下がっている。今までの調子で水を抜くと池はすぐに枯渇してしまう。しかし、田んぼには水がない。田んぼは干上がって地面にヒビが入るようになると、水を入れてもすぐに乾くようになる。だから、できれば今のうちに田んぼに水を入れたい。
つまり、いまは、水を抜きたい、しかし、水を抜くと池の水が底をつく、という八方塞がりならぬ、二方塞がりの状況にある、という内容の説明であった。
そのうえで、井手頭は《裏技》を提案した。伏原井手に関係するわが家の田んぼのうち、一番上の田んぼは、その三分の一弱が別の井手にも関係している。その別の井手(HT井手、と呼ぼう)も、現在は水が少なくなっているが、地下水を汲みあげるポンプをもっている。そちらの水をわが家の田んぼに入れることによって、少しでも池の水を節約しよう。それが提案であった。
水一升、米一升
集まった7人のうち、その別の井手に関係しているのは、私以外にもうひとりいる。その人(Fさん、と呼ぼう)の田んぼはわが家の田んぼのすぐ下にある。ただし、わが家に水利権がある面積より四倍も広い田んぼである。二人は、井手頭の提案を受けて、その場で相談したが、提案をただちに飲むことはできなかった。ふたつの井手の水の配分には、それぞれ独自の論理がある。建てまえ上、一つの井手の論理のために、もう一つの井手の論理を曲げるわけにはいかない。それに、おおっぴらに論理を曲げろ、と言われては即座に承諾しかねる。いろいろ話し合って結局、妥協的な方策として、ともかく今晩は、今夏一度もポンプアップした水を田んぼに入れていないわが家の田んぼと、数日前に水を入れたがいまは水がなくなっている、すぐ下の田んぼに水を入れる、ということにした。ふたつの田んぼに入れた水は、オーバーフローすると、横手[田んぼ内部にある簡易水路]を伝って、わが家の別の田んぼに入る仕組みになっている。夜の間に入る水の量によっては、別の田んぼもおこぼれにあずかるかもしれない。二人の間で、この程度の《融通》ならできるだろう、という結論に(しぶしぶではあるが)なった。我々二人が井手頭の《裏技》を受け入れたあと、伏原井手としては、わが家の田んぼに、HT井手からいくぶんか水がはいった翌朝、亀池の水を抜くことにした。
話し合いが終わってからの帰り道、井手頭は「水一升、米一升」という言葉を使った。稲作が懸命に行われていた昔の言葉である。それほど、水は貴重なものとして大事にされ、また、それゆえ、ときとして刃傷沙汰にまで及ぶことがあった。井手頭が提案した《裏技》も数十年前であれば、大問題に発展しかねないものである、ということであろう。さいわい(?)いまは稲作に命まで懸ける人はいない。
《天狗水》?
Fさんはその足でHT井手のポンプのスイッチを入れにいき、私と田んぼで落ち合った。その前に、私は伏原井手関係で今年耕作している5枚の田んぼの水を確認した。すると、なぜか下の2枚には水がなみなみと入っており、それ以外の田んぼも乾いてはいなかった。私はFさんにそのことを説明して、HT井手からの無理な取水はやるまい、と確認した。そして、ポンプのスイッチは明朝はやくに切る、ということにした。
なぜ水が入っていたのか? 《天狗水》とでも言いたいが、実際はFさんの田んぼのすぐ下の田んぼ(HT井手から取水している)からオーバーフローした水が、入ってきたのであろう。水量からして、長時間オーバーフローしていた、と思われる。伏原井手とHT井手とは人間の論理としては区別されながらも、自然の論理としてはつながっている、ということだろうか。