てつがく村 はこんな むら です

 
この文章は「『てつがく村』開村宣言」のつもりで、去年の夏から書き始めた。ファイルの最終更新日は、2001年3月6日となっている。時間のあるとき、半年あまりもかけて、書き継いだことになる。最後に中断してから半年、いまはもう、この文章を書くための内的緊張が途切れてしまった。文章は未完のままであり、また、いま読み返すと、内容に力みが感じられ、気恥ずかしい思いもあるが、ホームページを開設するにいたった経緯と動機を、サラリーマン哲学者としての立場から、説明しているとは思われるので、掲載することにした。
 
農耕する生活からの哲学
 
私は大学で、広く言えば「哲学」の、研究・教育に従事している。専門領域は、と訊かれれば、現象学、なかんずくフランス20世紀の哲学者であるメルロ・ポンティを研究対象にしている、といった具合に答えることにしている。専門領域が話題になっているとき、さらに、どうしてメルロ・ポンティなのか、と問いかけられることもある。メルロ・ポンティに傾倒した動機は何なのか、彼の哲学の何に惹かれたのか、という趣旨の問いである。むろん、その問いに正面切って答えられないことはない。でも、メルロ・ポンティですか?飯の種ですよ、と問いをうっちゃりたい気がするし、また、そのように答えこともよくある。真剣な話題にふと肩すかしを食らわせてしまうのは私の悪い癖だが、しかし、このような返答の裏には、私なりの〈真面目な〉思いがある。自分が現在なりわいとしている世界、すなわち教育・研究者たちの世界に、もっと一般的に言えば知的生活に、浸りきることができない、という思いである。

たとえばこんな状態である。電車の中、入り口近くの壁に体をもたせ掛け、外をぼんやりと眺めながら、何でもいい或る知的な話題についての考えに耽っているとしよう。遮断機の甲高い警鐘が不意に耳に入ってきて、ふと我に帰る。すると、友達に会いに行くといった具体的・日常的な目的をもって電車に揺られている自分、つまり生身の自分と、ついさっきまで耽っていた思考との間に、虚しくなるような落差を感じる。もっと言えば、思考が、生身の堅固な地盤から離れた中空で、泡沫のように弾け散ってしまうのである。

比喩として出したこの経験は、じつは、学生時代の体験である。それからは、折に触れ、繰り返しこの体験が思い出されてくる。ありふれて他愛のない体験ではあるが、私にとっては、或る比喩として、或る象徴として、機能しているからであろう。

* * *

頭の中の世界は、生身で経験する世界とは違い、意識的に絶えず賦活し養分を与えなければ存続しない。いつも崩壊へのベクトルをはらんでいる。しかし、私が言いたいのは、観念の世界がもつ、そのような避けがたい傾向だけのことではない。思考によって、私たちは世界全体を把握することができる。思考は、それだけでは黙したままである経験に言葉を与える。そのおかげで、混沌の状態で曖昧模糊としていた経験は、整理されて明らかに意識されるようになる。ところが、経験は、必ずしも経験する当の者によって思考されるわけではない。思考するためには、経験から距離をとり、それを対象化する余裕が必要であるが、経験者にはそうした余裕がしばしば欠けている。肉体を酷使すれば、思考は窒息さえしてしまう。ひとは経験しつつ思考し始めたし、経験しつつ思考している。しかし、経験と思考とは互いに排除し合うような関係にあるがために、経験について思考し語ることをもっぱらにする者が生まれた。世界とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、こうした問いは、[ヨーロッパでは]古来、哲学者という知的専門家によって問われ、答えられてきたのである。

しかし、哲学者が紡ぐ知は、実践の知ではなく、観照の知である。労作から解放された知性である哲学者たちのあいだでは、具体的な作業にまつわる技術知より、存在一般を対象とする抽象的知の方が価値あるものとされてきた。哲学者たちは、生身の経験から遠く身を引き、経験の一般的な骨格しか見えない場所から、しかも経験を生きることなく、経験を反省し、世界や人間について語ってきたのである。

抽象的・一般的知によって覆い隠されてきた「生きられる世界[生活世界]」に還帰し、それを直観的に記述することから哲学しようとする現象学にしても、やはり事情は、根本的には変わっていない。ボーヴォワールが語るサルトルと現象学との出会いは、たしかに感動的である。「アロンは自分のコップを指して、『ほらね、君が現象学者だったら、このカクテルについて語れるんだよ。そしてそれは哲学なんだ。』サルトルは感動で青ざめた。」フッサールの『内的時間意識の現象学』の邦訳の背帯にも、同じ箇所が引用されている。具体的な事実について、日常的な生について、語ることができる哲学、生の実感から思考し、生きる具体性の中にはっきりとした道筋をつけてくれる哲学、そんな勝手な想像を膨らませながら、いざ『内的時間意識の現象学』を繙いてみると、その本で語られるのは、時間的なものが発生してくる意識の生といった、或る種の哲学的修練なしには掴みがたい「現実」についての、反省的記述であり、しかも、抽象的な、よくいえば原理的な、分析である。それゆえ、私たちが実際に経験している時間的なものすべてに当てはまりはするが、どの時間的なものにもなじまない理論である。むろん、哲学は原理からの知であり、それゆえ、時間の問題についても、まず時間意識の原理的考察から始めて、種々の時間客観の構成を考えていくものであり、『内的時間意識』で行われているのは原理的考察にすぎない、といった反論がありえよう。しかし、現象学が明るみに出し、まず出発点として記述する「生きられる世界」とは、意識一般が生きる世界であり、時間といったものを生きている生身の経験世界ではない。現象学においては、反省される経験は、ひたすら知的探究を行う限りでの人間の経験、すなわち具体的・日常的な生活関心から自由になった(言い換えれば、生活関心には無頓着な)人間の経験に局限されているかのようである。そして現象学も、他の哲学同様、人間存在、すなわち人間一般の本質の探究に終始するかのようである。

ひとはなぜ哲学するようになるのか。世界を前にしての驚きとか実存の不安とかが、哲学の動機である、とよく言われる。動機がなんであれ、哲学は特殊で具体的な生身の経験から滲み出てくる。ちょうど傷ついた樹皮から樹液が滲み出し、傷口を覆うように、哲学は、驚きや不安によって揺らぎ乱れる生身から滲み出ながら、一般的な言葉へと結晶し、言葉の力によって生身のバランスのとれた生き方を再び回復しようとする。だから、哲学はたしかに、世界とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、といった問題に関わる。それらの問題の原理的考察を行う。だが、哲学はその考察だけにとどまるのではない。哲学的な問いは、特殊で具体的な経験から生まれ出たからには、哲学の効力が試されるのも、やはり特定の生身であろう。また、哲学の回復力が向かっていくのも、やはり特定の生身であろう。特定の生身で試され、特定の生身を回復させてこそ、哲学の存在意義がまっとうされる。

ところが、知的活動には、心理的な麻酔作用のようなものがある。哲学を始めた動機が具体的な経験にあろうと、哲学的な思索を始めると、いつの間にか、己の哲学の起源を忘れ、純粋思惟の領域にはまり込んでしまいがちである。知の特殊な糸を次々と紡ぎだすことが価値のあることと社会的に認められていれば、いっそう、閉じこもりの傾向が強くなる。

しかし、幸いなことに、あるいは、不幸なことに、哲学には、閉じこもりのまどろみを破る力が内包されている。他の知的探究であれば、その動機は、驚きであっても、世界そのものについての驚きで十分なのであり、人間が内側から生きている世界についての驚きである必要はない。生活と知的探究は互いに独立している。ところが、哲学では、始まりの驚きは、驚く者自身の実存を巻き添えにする。そのような驚きが、哲学を動機づけるだけではなく、養ってもいる。だから、哲学者は、純粋思惟に耽っているさなかにも、ちょっとしたきっかけで目覚めさせられ、起源を忘れ純粋になりすぎた思惟が、己の具体的な実存の前に色あせてしまうことを経験する。最初に語った私の体験が象徴しているのは、このような覚醒である。

生身の経験に引き戻される、ということは、哲学にとっては、まっとうな有り様である。近年耳にする「臨床哲学」は、哲学の、しばしば無自覚な自己満足、閉塞状況を打ち破り、哲学を生身の経験に連れ戻して、哲学を蘇生させようとする一つの試みであろう。痛みや苦しみの現場に立ち会い、共感的にその現場を生きて、一方で、その「臨床」経験を糧に哲学し、他方で、現場の人たちと共に悩みや苦しみの生き方を模索する。書斎から外に出て、哲学の原点に戻ろうとする、いわば原理主義的な試みが、「臨床哲学」であろう。ただ、この哲学の新風においても、哲学が長く続けてきた有り様から完全に自由ではあり得ない。哲学的フィールドワークにおいても、思索する者と生きる者との分離はやはり厳然としてある。生きる者は、思索する者ではない。思索するには、生が重すぎる。他方、思索する者にしても、彼の実存は、自己満足から覚醒させるに十分であっても、彼の思索を試し、受け入れるには「純粋」すぎる。軽すぎ、貧しすぎる。思索する者は、他者の経験に共感することで、己の経験の貧しさを埋め合わせるしかない。(哲学という知的営為がたいていの場合、大学人によって営まれる、という現状からすれば、この分離は致し方ないとは言えるが。)

* * *

私はといえば、思索をしているという自覚はあっても、哲学を十分に「生きている」という実感には欠けていた。何度も覚醒の経験をしながらも、思索の支えとなるに十分な経験を自分の中に見いだせなかった。私にしても、むろん、ただ知的好奇心だけで哲学を始めたわけではない。哲学的思索の核には、自分自身の実存を巻き添えにした「驚き」があり、たえずその「驚き」を反芻しながら思索をしている、という思いはいつもある。だが、思索と生活とのめくるめくような距離は、埋めることができないでいた。あるいは、知的探求/探究に没頭できるという、大学人には望ましい資質が、私には欠けているのかも知れない。

ところが、ある時、大学人としての生活とは別の生活を背負い込むことになった。家庭の事情で、週末に農作業をすることになったのである(「週末農人こと始め」参照)。農の心得はあるといっても、ごくわずかである。体を動かすことが好きだといっても、やることは、ジョギングとか山登りであり、一日の大半を占める「本務」は室内の仕事である。乏しい知識で試行錯誤し、力仕事に馴れぬ体を土相手に働かせながら、農耕の1年目は無我夢中であった。平日は研究室、週末は野良、生活は二つに分裂してしまったようであった。

それでも、2年、3年経つにつれて畑作の大体は呑みこめてきた。そして、精神的な余裕が少しずつ生まれてくるに従って、自分の哲学と農耕との間に何か通い合うものがあることに気づき始めた。

最初に触れたように、私はメルロ=ポンティを研究することから哲学の世界に入っていた。メルロ=ポンティは、ヨーロッパ近代の人間像の閉塞状況を打ち破るために「身体」という概念を提唱し、晩年には、ヨーロッパ近代の分裂した存在論を統一するために「肉」という概念を彫琢しつつあったが、私のメルロ=ポンティ研究の主要なモチーフのひとつは、近代=現代の実存を乗りこえる方途を見いだすことにあった。ただ、メルロ=ポンティ哲学、ないし現象学一般には、実存という言葉はあっても、そこで言われる実存は、実存一般とか、哲学の歴史に覆い隠されてきた人間存在とかで、結局のところ、知的「実存」の純粋領域で紡がれる実存概念でしかなかった。具体的実存は、きれいに抜け落ちていた。

ところが、耕しては考えるにつれて、農耕が、私たち現代人の実存を批判的に考えるための戦略的な場であることに気づき始めたのである。

近代は(そして現代も)生産様式からすれば、工業生産によって特徴づけられる。社会は工業と都市を中心に成り立っており、工業《以前の》生産と農山漁村は、工業と都市に従属し、工業化と都市化の波にさらされている。ところで、私たち人類は長い間、囲繞する自然の中にあって自分を生かす、という必然を生きながら、自然とのつきあい方と、仲間と共に生きる術とを身につけてきた。自然の中で生きる「智恵」を体得してきた。しかしながら、工業生産と都市生活の現代では、私たちが生きる「自然」は、生 [ナマ] の自然に穿たれた空間に、「技術知」によって、設えられる。生 [ナマ] の自然の「気まぐれ」は、極力排除される。工業化と都市化の進展は、だから、私たちを生の必然性から解放する道のりである、とも言えよう。私たちは、傷つきやすく病みやすい生身からも解放される。

しかし、じつのところは、生身から解放されるのではなく、生身を忘れてしまうだけなのである。なるほど、現代では自分の身体に対する配慮はむしろ格段に高まっている。衛生に気をつけ、栄養のバランスや食物の安全性に注意しながら食事をする。空調された室内で一日を過ごし、ときにスポーツに汗を流す。身体はかつてないほどに整えられる。しかし、身体に対する細心の配慮は、じつは、身体の忘却ないしは棄却に対する無意識の補償なのである。私たち人類は、自分が生きる風土の、他の生命体を摂取して生き延びてきた。人類のこの長い経験が、私たちの実存の基底をなし必然をなしている。たとえ、ここ数世紀の近代化の経験が私たちをその必然から解放してくれるように見えても、本当のところは、私たちは人間をやめることなしには、いな、生命体であることをやめることなしには、その必然から逃れることはできない。それにもかかわらず、生身であることの必然からついに解放されつつある、と思うところに、現代の倒錯がある。

だとすれば、農耕は、私たちの実存の倒錯の暗闇を照らしだす、戦略的場になりはすまいか。「農業」化したといっても、農耕は、自然の中から自分を生かす、生かさざるをえない、という私たち実存の原点の周辺にとどまっている。そして、「農業」化を邁進するわけにはいかないし、邁進する必要もない兼業的な小規模農耕とか、「農業」化とは別の農法をめざす農耕とかは、いっそう原点に近いところにある。だから、農耕を生きれば、近代的実存とは別の実存が体験されるかもしれない。近代的実存が忘れてしまっている私たち人間の基底を感得できるだろう。事実、耕していると、自分の実存の埋もれていた基層が少しずつ露呈してくるような気がしてきた。

* * *

ホームページ「てつがく村」を開設しようと思い立ったのは、このように農耕と哲学が互いに近づき始めたときである。

文章はここで切れている。ここから先は、ホームページの紹介をするつもりであった。

メイン・コーナーは『日々想々』であり、生活のふとした出来事から生まれてくる思索を、生活の具体性の中で、また、具体性から抽象されないような言葉で、書き綴ること。その意味で、ホームページは、「哲学」村ではなく「てつがく」村と名づけること。
また、生活は、ここでは、主として農耕生活であること。ホームページの訪問者に農耕生活を実感していただき、また、自分自身に対しては、思索がいつのまにか、観念のなかの純粋思考になってしまっていた、といったことにならないためも、『農事録』を掲載すること。つまり、「てつがく」は農村における生活から生まれるという意味で、ホームページは、てつがく「」であること。
さらにまた、「村」は、現実としては、私が農耕を営んでいる地域を念頭においてはいるが、ホームページで農耕生活そのものをたんたんと綴るのではなく、農耕を「てつがく」化しようとしている、という意味で、「村」は WEB 上に浮かぶ vertual village であること。言い換えれば、現実生活と観念生活との間を哲学的に行き来しながら、その往来をひとつのまとまりとしてホームページで実現したいこと。

おおよそ、このような紹介を予定していた。しかし、結局はそこまで書き進まなかった。書く時間を作り出せなかったという理由もむろんある。また他方で、この文章ができないうちに、ホームページの方はどんどん進展して行き、なまじ内容に固い枠をはめてしまうような文章は書かない方がホームページの今後の展開のためによかろう、と思うようになったこともある。ホームページのコンセプトだけは堅持し、内容は自由に展開させる、ということである。
(2001年9月30日)

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